新しいアメリカ大使が近々東京に赴任と聞かされ、貞吉の心はときめき「秘書になってくれまいか」とパブスト少佐の誘いを受けた袋物屋泉時代がつい昨日のように思い出された。
在京の大使館公邸では、大使が代わると、それまで働いていた日本人職員は入れ替わり、新しく雇い入れられるのが一応の仕来たりになっている。
「大使館に働きたいと君が希望するなら、どうだろう私は大使宛てにリコマンデーションを書く積りだが」と公使が薦めてくれた。
どのようにして情報を手に入れるのだろうか、さすがに公使である。アメリカ大使の東京到着は昭和七年の六月六日という。貞吉はパブスト公使の好意をしみじみと噛みしめつつ、「霊南坂の公邸に参ります」と答えた。
この朗報におこうはどんなに喜んだことだろう。昭和四年ウォール街から始まった大恐慌の波は日本をも襲い、庶民は不況に喘ぎ、特に東北の農村地帯では娘を身売りに出す農家が続出し、暗い世相が人々の心を不安にさせていた時代だった。五人の子持ちになっていた貞吉夫婦だが、銀蝶を経営し、ご近所の常連さんに支えられて幸い通常の日々を維持している。とはいえ寅之助から資金援助を受けている身で、それに返済がある。都合が良いときに返せばいいと云われても、おこうにはおこうなりの意地がある。
時々おこうは吝嗇(りんしょく)けちを意味する隠語「六日(むいか)しらず」を口にした。指で日にちを数える時、ついたち、ふつか、みっか、よっか、いつかと来てむいかと小指をあげれば、せっかく握った拳をひらくことになる。六日のためでも一度にぎった拳は開かない。つまり吝嗇ということだ。
後ろ指をさされるのは浪速生まれのおこうの矜持が許さなかった。
寅之助の血の滲むような努力をおこうは知っている。明治の時代、大阪地方の水道事情は良好とはいえなかった。井戸を掘っても塩分混じりの井戸水が多く、市民は水に悩んでいた。家が貧しく小学校にも禄に通えなかった寅之助は大阪の水事情に目をつけ、幼い体で淀川の上流の水を汲んだ桶を担ぎ、市内を売り歩き、爪で火を灯すようにして一生懸命貯めた資金で今度は貸しボート屋を開業し、実務家の第一歩を築いた。やがてボート屋から船場で穀物の卸問屋を開くに至るのだが、縁は異なもの味なものと云われるが、人の縁とは分からぬものだ。寅之助は北浜こと大阪証券取引所に出入りする人物と出会い、寅之助の人柄に惚れこんだその人は株の取引、経済市場の原理を手を取り足を取り伝授した。そして京都で小間物屋の看板娘を紹介するのだ。さすが看板娘と云われるだけあって、おしなは品の良い京都を代表するに足る品の良い娘振りの女性であった。だが不思議なことに寅之助に嫁ぐと実家の小間物屋は衰退し始め、寅之助の店は上り坂になっていくのである。
おこうには頼もしい兄だが甘えてばかりはいられない。貞吉の仕事が決まれば銀蝶の経営も弾みがつくだろう。
昭和七年(一九三二)六月六日、この日の東京は早くも梅雨の入りなのか、昨夜来の雨が午後になっても未だ降り続いていた。羽織り袴一式を風呂敷に包み、銀蝶の玄関に立った貞吉におこうは門出を祝い、火打石で切り火を切って見送った。貞吉は田村町から歩いてもさほどの距離はない赤坂のアメリカ大使館に向った。
大使館。特命全権大使がその駐在国で公務を執り行う公館。大使派遣国に置かれ、国際法では本国の領地と同一にみなし、駐在国の主権の範囲外にあるものとされている。
アメリカの国鳥、白頭鷲の紋章が嵌め込まれた大使館正面の鉄の扉が大きく開かれ、チャンセリー(大使館事務所)のアメリカ国旗星条旗は雨に打たれ、重く垂れていた。
アメリカ大統領フーバーの任命により、新任のジョセフ・C・グルーは妻アリスと末娘エルシィとともに五月十四日、ワシントンを出立して汽車で大陸を横断、サンフランシスコから乗船し太平洋を渡り、途中ハワイに寄港したのち、横浜に入港、そしてこの日、車で大使館に到着し、すでに旅装を解いていた。
東に面した大使館正面前の榎坂を左に上がると、東京湾が一望できたところから汐見坂と名づけられた頂上に出会う。その榎坂と汐見坂が攻めぎあう場所から霊南坂の急坂が西に高く伸びている。霊南坂は関が原の合戦に参加した徳川の従軍僧霊南がこの辺りに庵を結んでいたというのが、その名の由来と言われている。
坂の左側には武家屋敷を偲ばせる大倉喜八郎邸(現在のオークラ・ホテル)の塀が延び、右側にはアメリカ大使館の白亜の塀が坂上に長く続いている。傘をさし四十三歳の貞吉は雨に濡れている霊南坂を登っていく。五人の子供を抱え、不況に強いといわれている遊技場銀蝶とて必ずしも例外ではないことを貞吉は知っていた。
懐にはグルー夫妻宛てのオランダ公使パブスト将軍が記してくれたレコマンデーション(推薦状)があるとはいえ、アメリカ大使が採用してくれる保証はない。
不安と期待が交錯するが、一歩また一歩と上がる貞吉には、後年日米が開戦し、さらに昭和天皇が連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥に会われるため、この霊南坂をお登りになり、まさか自分がお出迎えする身になろうとは知る術もなかった。
白亜の塀に囲まれたアメリカ大使館は大正十二年の関東大震災で焼失した後、帝国ホテルを建てたライトの弟子アントニー・レイモンドの設計で昭和六年(一九三一)総工費百五十万ドルをかけて新たに竣工されたのである。
この工費を巡り、大恐慌の真っ只中にあったアメリカでは、時のフーバー大統領が議会から激しい追及を受けたという。徳川義親から購入した一万八千平方メートルの広大な敷地には、まず榎坂に背中を見せるようにチャンセリー(大使館事務所)が建ち、このチャンセリーの正面両側にAアパート、Bアパートと呼ばれる二棟の館員用アパートがシンメトリーに配置され、それらの建物を見下ろすように丘の上には大使家族が居住する公邸が建っている。
それぞれが緑青(りょくしょう)を葺いた(ふいた)青瓦の屋根と白い壁で外観を描くスペイン風の建物は、内装にイタリアから取り寄せた大理石がふんだんに使われ、見る者の目を奪わずにはおかなかった。
敷地内には十字形の池とプールが設けられ、丘の斜面から平坦地にかけて武蔵野の面影を残す木立が鬱蒼と茂っている。
丘の上の公邸は斜面を巧みに活かした地下室と地上二階からなり、噴水を配し、手入れの行き届いた広い庭を囲むようにして、L字形に建てられている。
L字形の角にあたる大理石で敷きつめられた正面玄関をはいると、天井の高い玄関ホールと大広間、そして大食堂、書斎、応接間、執務室、クローク、厨房、パントリーがあり、二階にはゲスト・ルームを含めて、それぞれバス・ルームが完備された大小あわせて六つの居室に、食堂、それに下とつなぐエレベーターが備えられている。
確かに百五十万ドルの工費を追求されるに足る見事な造りであった。