私は昭和19年(1944年)4月、生まれ育った東京の板橋から青森市の母の妹である叔母のところへ疎開した。国民学校(今の小学校) 5年生の時である。
板橋の家は板橋町7丁目(今の稲荷台)にあり、南北に陸軍の弾薬や軍需物資の集積施設があり、西には「防毒面(ガスマスク)」の軍需工場があって空襲が始まると一番被害を受けやすい所と思われていた。
それに、当時、母は国民学校の教員でもあったので、国の施策として後に行われた集団疎開にさきがけ、我が家では縁故疎開を積極的に行ったようだ。
疎開先として青森市が選ばれたのは父母の郷里が青森県であり、親類縁者が多く何かと便利だと考えてのことだった。
しかし、後になり深く考えてみると、この考えはあまりよくなかったことになる。青森市は本州の北の玄関口で、当時は青函トンネルが無く、北海道と結ぶ青函連絡船の発着港があって交通の要衝であった。敵側にたって考えれば、攻撃目標としては絶対に外せない重要拠点なのだ。
疎開してきたよそ者と白い目で見られたり、食糧難に苦しんだりはしながら凡そ一年の月日が流れた。その間に戦況はわが国にとってますます不利になってきた。東京や大阪などの主要都市では空襲は日常茶飯事となり、
東京で家を焼かれた人たちが青森にも逃れて来るようになってきた。
そのような状況の中、青森に空襲警報が頻繁に発令されるようになったのは昭和20年7月のことである。
まず、やってきたのは7月14日午後太平洋上の空母より飛び立った戦闘爆撃機で、目標は思ったとおり青函連絡船であった。
疎開先の家は北側200メートルほど先が陸奥湾の海岸で、夏は海水浴場となるところだ。空襲を受けたとき陸奥湾には大小合わせて十数隻の青函連絡船がいたようだ。飛行機に攻撃され海上を蛇行しながら逃げ回った青函連絡船のなかには砂浜に乗り上げて沈没を免れようとしたものもあった。
飛行機には200キロ級の爆弾が積まれていてそれが投下され爆発すると。ものすごい大音響と地響きが生じる。頭上を飛び回る飛行機の爆音も加わって、とても生きた心地はしなかった。中でも恐ろしかったのは機銃掃射で、家の中心部の部屋に袋につめた布団を周囲に積み上げその中にうずくまっているのだが、今にも目の前の布団を突き抜けて銃弾が身体に突き刺さるのではないかと思われた。
空襲が終わって海岸の砂浜に行って見ると、座礁した連絡船の無残な姿や目標に命中せず砂浜に落ちた爆弾の痕が生々しく残っていたのを今も鮮明に思い出す。それは直径20メートルほどのすり鉢状の穴であった。
結局、この日半日の空襲で13隻の青函連絡船が沈没または航行不能となり壊滅的損害を受けた。勿論、乗客や乗組員の尊い命も数多く奪われたのだ。
このような現状に遭遇し子供心に思ったのは「早く大人になり、軍隊に入り亡くなった人の復讐をはたさなければ・・・・」という事だった。悲しいかな、これが、当時、軍教育を受けて育った国民学校6年生の少年の偽らざる気持ちだった。
そうです。戦争は物質的破壊をもたらすだけでなく、洗脳し人の人格を変えてしまう恐ろしいものなのです。
08年09月10日 11:16:57
1944年の1月に私は生まれました。その後は山形の蔵王温泉(旧高湯温泉)に疎開。母は私を背負い、兄は荷車馬車の上に、姉は何故か枕を持って歩いて山形市から登って行ったそうです。終戦間際に「次は山形に原爆投下をするぞ」というビラが空から降ってきたそうです。幸い何も無かったようですが、青森は大変でしたね。奈良太郎さんの「早く大人になって軍隊に入って、アメリカに復讐をしたい」この一文がとても恐ろしいですね。現在の世界の紛争はは”大人になって”が省略されているのでしょうか。とても考えさせられます。(コメントを書く欄が機能し始めましたので書かせていただきました)