これは、KIKUYA FUNAYAMA氏のドキュメンタリー小説です。KIKUYA氏は 父の代からアメリカ大使館勤務。氏の父君はアメリカ大使館で執事長をしており、有名なマッカーサー元帥と昭和天皇との会談を内側から支えた方です。父君がなぜそのような立場になられたか、そして家族は。戦前、戦後を通じてこのFUNAYAMAファミリーしか体験できなかったことを氏はドキュメンタリー小説風にまとめました。では、あらためまして、
いまは東京都港区赤坂一丁目四番地になっているが、当時は東京府東京市赤坂区榎坂町四番地とよばれ、その一隅に通称掛け軸屋さんこと経師屋を右隣に、左に下駄屋を隣にして、丸に三の字の家紋を刻んだ看板を揚げ、間口二間ほどの泉屋なる袋物屋があった。
袋物屋とは、財布、煙草入れ、カバン、ハンドバック、信玄袋などいわゆる袋物を扱う店で、とりわけ煙草が箱のままそっくり入る鯨の髭で編んだ煙草入れが評判を呼んでいた。
明治二十一年(一八八八)生まれの貞吉には兄、姉、妹がいたが、兄の宗之助は家業を嫌がり、二年間の兵役を務めたばかりの貞吉が父の亡きあと否応無しに家業を継ぐ羽目になった。
貞吉の学歴は小学校だけだったが、幼い頃から父親の六三郎に従がい、横浜に袋物の仕入れの供をするたびに外国人とすれ違い、彼らが交す不思議な異国の言葉、英語にいつのまにか興味を持ち、父親にせがんでようやく手に入れた英会話本を後生大事に持ち歩き、独学で学習し、多少は操れるようになっていた。そんなことも手伝ったのか、店には外国人の客がよく姿を見せ、そうした客の一人にオランダ公使館附き陸軍武官と名乗るパブスト少佐がいた。
このパブストとの出会いが貞吉の一生を大きく変える不思議な縁になろうとは知る由もなかった。
口髭を蓄え、見るからに武張った頑固そうなオランダ軍人だが気に入った品物が注文どり手にはいると笑顔を浮かべ、それはそれは実に人懐こい表情になる武官だった。 貞吉とて麻布一聯隊で兵役を終えた身である。そのときの連隊長は「立つときは富士のごとく立て。寝るときは大河の如く寝よ」と訓示するのが常であった。この連隊長に鍛えられたことを誇りに思っていた。パブストが国王の軍人ならば貞吉は陛下の軍人であった。商人の腰の低さ、笑顔の心得はあったが、卑屈さは無かった。
パブストはそうした貞吉が気に入ったのか、しばしば店に立ち寄り、話し込んでいくようになっていたが、ある日のこと、仙台箪笥を手に入れてくれまいかと、頼みにきた。
仙台箪笥とは、遠く伊達正宗の時代、藩主の意を受けた伊達藩では藩の産業のひとつとして箪笥の製造,販売が奨励されていた。それは仙台箪笥と呼ばれ、当時はオランダ経由でヨーロッパ各国にも輸出され、上流社会では重厚な量感に溢れた日本の家具、として珍重されていた。
オランダの母の為に是が非でも仙台箪笥が欲しい。ひとつ面倒を見てくれまいかとパブストが頼みにきた。
「宜しゅう御座います。お引き受けいたしましょう」と即座に貞吉は答え、さながら貧乏人の節句働きのように走り回り、ようやく箪笥を手に入れ、オランダへの発送も滞りなくすませた。喜んだパブストは礼金を渡そうとしたが、頑として貞吉は受け取らなかった。何故と訝るパブストに、
「本来仙台箪笥は私共の品ではありませんし、それにお金を受け取ったとなればご先祖の助六さんに申し訳ありませんから」というのが、その言い分だった。
ご先祖さんに申し訳無いという貞吉の意味をどこまで理解したのか、馬鹿正直ともいえるこの日本人がパブストの目にどのように映ったのだろうか。だが貞吉の人柄を愛でた彼は満幅の信頼を寄せ、
「どうだろう、私が日本に滞在中、個人秘書として働いてもらえまいか」と切り出した。
「宜しゅうございます。お引き受けいたしましょう」とは、いえなかった。
なにしろ袋物屋の家業があり、右から左においそれと引き受けられる身ではなかったが、しかし多少なりとも英語を操れるまだ若い貞吉には大きな魅力であり、変化に富んだ価値ある仕事に思えたのである。
すでに父親は世を去っていたが、幸い母親は元気で商いにも慣れていた。貞吉は渋る母親をようやく説得し、陸軍武官パブスト少佐の元で働くことになった。